清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会のブログです。イベントや川の様子をお知らせします。手渡す会のHPはこちら↓ http://tewatasukai.com/
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脱基本高水治水研究会の参加者より
脱基本高水治水研究会に参加して
一橋大学大学院社会学研究科 森 明香
4月6日、7日と2日間にわたって人吉旅館で開催された脱基本高水治水研究会に参加した。
脱基本高水治水研究会なんていうと、非常に難解な議論を行う研究会のようだが、そうではない。この研究会のねらいは、球磨川水系の流域住民が選んだ「脱川辺川ダム」の思想を明らかにし、それを発信することだった。言い換えれば、川辺川ダムにNoを突きつけた流域の思想が、流域社会のどのような歴史的背景に基づいており、またダム反対運動の経験を通じてどのようにして形成されていったのかを、伝えようとするものだった。
なぜこのような小難しい名称の研究会となったかというと、「脱基本高水治水」という言葉が、流域住民を主として展開された川辺川ダム反対運動について考える上で、極めて重要だったからだ。
そもそも基本高水とは、河川工学や河川法における専門用語で、洪水防御に関する計画の基本となる洪水、と定義づけられた言葉だ。河川整備基本方針や基本計画で○○t/秒という基本高水がそれぞれの河川が流すことのできる流量として定められ、この数値を基に、溢れた場合の流量を貯め置くダムや遊水池といった河川構造物が計画される。いろいろな計算方法は考えられているものの、流域の森林や林道や地質、さらに護岸状況はさほど考慮されないまま、設定されている。
球磨川流域を主として熊本県内や全国にも支援の輪が拡がった川辺川ダム反対運動では、2001年から2003年まで述べ9回開催された住民討論集会ならびに森林保水力の共同検証の際、この基本高水が大きく立ちはだかった。毎回会場が数千人規模で埋まりテレビの中継も入って壇上の議論が注目される中で、推進派の論客である国交省官僚や河川工学者らと対等あるいはそれ以上にやりあうため、川辺川ダム反対運動は川辺川ダムの根拠となっている基本高水に切り込み基本高水の精神も含めて猛勉強し、基本高水の考え方そのものに違和感を抱くようになっていく。
こうした背景があるからこそ「脱基本高水治水」という言葉に込められた意味は、設定された具体的な数値の否定のみにはとどまらないだろうと、私は感じていた。他方で、「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味を伝えることの難しさも、予想していた。私自身、川辺川ダム反対運動の歴史や意味、さらには川の傍で川と共に生きる暮らしを流域の方々から学んだからこそ、基本高水やこれを支える河川法の川の捉え方が球磨川流域住民の川の捉え方と大きく異なることに、気付き始めたからだ。球磨川・川辺川からの発信を、他の地域の人びとがどう受け止め、どんな議論が喚起されるのか。「脱基本高水治水」という言葉に込められた意味は、どのように説明されるのか。伝えることの難しさを予想しながらも、私は楽しみでワクワクしながら、東京から熊本へと飛んだ。
1日目は、手渡す会の黒田さん、八ッ場あしたの会の渡辺さん、水源連の遠藤さん、京都大学名誉教授の今本先生の報告を踏まえて、研究会参加者との討論が行われた。
この日は、この研究会で何をしようとしているのかを確かめるような質疑や議論が展開された。印象的だったのは、言葉や状況の解釈が発言者によって異なることが、表れていたことだ。
今回、他地域のダム反対運動をしている人たちも参加していた。議論をする際の発言や議論の解釈は当然、それぞれの暮らしや運動の経験に依拠したものとなる。運動の戦略についても、ダム問題の当事者は水没予定地のみならず流域全体だということについても、球磨川流域では当たり前のことが他の地域ではスムーズに受け止められないことが、討論から伝わってきた。なるほど、私自身、川の傍で川と共に生きる暮らしを経験したことはほとんどないので、「ダムや連続堤防が川を殺す」ことを観念的には理解できても、実感を伴った理解をするのは容易ではなかった。そうした、自分自身が経験した難しさが、ここでも再現されていた。
一方で、そんな場面にたびたび出くわして改めて思ったことがある。この流域は、川の川らしさを知り、川らしさを取り戻すことがどれだけ重要なのかを、実感を込めて発信できるところなのだ。そのことが、とても羨ましかった。
2日目は、円卓で1日目の討論が続けられた。今回の研究会の成果のアピール文や内容を吟味し、また研究会の名称を含め今後どうしていくかについて、議論が交わされた。
アピール文の内容の検討では、今後を考える上で貴重な議論ができたように思う。今回の取り組みが、参加者にどれだけ理解され問題意識が共有されたのかが浮かび上がってくるような議論だったからだ。そして、川の傍で川と共に生きる暮らしの経験があまりない人たちに「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味の理解を促すためにはまだいくつかのステップが必要なことも、明らかになった。
まず、そもそも川とはどのようなものか、という議論は不可欠だろう。球磨川・川辺川流域の人たちが「生きた川」と表現する川が、いったいどのような川なのか。それがわからなければ、ここの流域の人たちが言う「今の球磨川は死んでいる」ということがわからない。それがわからなければ、流域社会が経験したダム・連続堤防・高度経済成長に付随する生活様式の変化とそれに伴う排水等から川が死んでいったこと、流域にとってのそのことの、意味がわからない。なぜこの流域の人たちは何度も浸かりながらも球磨川を大切に思っているのか。なぜ、これ以上ダムができたらいけないという判断が働いたのか。この観点からすれば、川を「洪水を流す河道」としか見做さない河川法の問題点も、伝わらないに違いない。
また、治水とは何かという点についても、議論を通じて理解を深められるといい。住民討論集会をはじめ政策レベルで河川を議論するとき、川の問題は水害対策・利水・環境といった具合に分化されてきた。それぞれのトピックに“利害関係者”が設定され、利害を天秤にかけて、「環境より経済・防災が大事」といった判断がされてきた。議論の交通整理をするため分化するのは仕方ない面もあるだろう。しかし、そもそも川とはどのようなものかに関する共通認識がない上で分化すると、机上の空論しか展開できない。数値を駆使し計算式で捉え、危機をあおる。川とは、そんな狭量なものなのだろうか。川の機能は分化して、数値や計算式で実態を掴めるような、技術でコントロールできるようなものなのか。治水とは、そういうことなのか。2日目の議論で出されたこの指摘は、川の傍に川と共に生きる暮らしを積み重ね洪水の度に現場を歩き回り検証を繰り返してきた流域住民と、「流水を見ていたけど川を見ていなかった」と省みる治水の専門家からの、クリティカルな問題提起ではないだろうか。
こうした論点を踏まえながら、今後、川の傍に川と共に生きる暮らしを重ねてきたこの流域から「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味を、より伝わる言葉にして発信していけるといい。まだ発展途上だけれど、そんな展望も描かせてもらえるような議論だった。
かつては日本中の多くの地域で、川の傍で川と共に生きる暮らしがあった。しかし戦後の河川開発が全国で展開され、川の領域を侵犯して宅地化と川のコンクリート三面張りの水路化が進んだ今日では、都市部を主としてそうした暮らしは失われた。今では奥山の川までダムが造られコンクリート張りになり、かつての経験則が通用しない、人を寄せ付けない川が多くなってしまった。悲しいことだが「レジャーでしか川に行かない」「川は遠い存在」という人の方が、今は多いに違いない。名古屋に生まれ育ち、京都で学生時代を送った私も、球磨川流域に通うまではその一人だった。だからこそ、川の傍で川と共に生きる暮らしとその重要性を知って「脱川辺川ダム」を選択し実現した球磨川流域からの発信は、大きな意味を持つと思う。
川辺川ダム反対運動にかかわってきたみなさんは20年にわたる運動を通じて、「脱川辺川ダム」の思想をつくりあげてきた。そしていま、その思想を、私のような川の傍で川と共に生きたことのない他者へも伝達可能な言葉に翻訳しようと、奮闘されているのだと思う。
今後、この努力がどのように展開され実を結んでいくのか。手渡される世代にある立場でみなさんの背中を見て学びながら、私も、将来世代に手渡す努力を重ねたいと思う。
※一部メディアで「脱基本高水治水研究会の結成」と報道されていますが、研究会を結成したわけではありません。
一橋大学大学院社会学研究科 森 明香
4月6日、7日と2日間にわたって人吉旅館で開催された脱基本高水治水研究会に参加した。
脱基本高水治水研究会なんていうと、非常に難解な議論を行う研究会のようだが、そうではない。この研究会のねらいは、球磨川水系の流域住民が選んだ「脱川辺川ダム」の思想を明らかにし、それを発信することだった。言い換えれば、川辺川ダムにNoを突きつけた流域の思想が、流域社会のどのような歴史的背景に基づいており、またダム反対運動の経験を通じてどのようにして形成されていったのかを、伝えようとするものだった。
なぜこのような小難しい名称の研究会となったかというと、「脱基本高水治水」という言葉が、流域住民を主として展開された川辺川ダム反対運動について考える上で、極めて重要だったからだ。
そもそも基本高水とは、河川工学や河川法における専門用語で、洪水防御に関する計画の基本となる洪水、と定義づけられた言葉だ。河川整備基本方針や基本計画で○○t/秒という基本高水がそれぞれの河川が流すことのできる流量として定められ、この数値を基に、溢れた場合の流量を貯め置くダムや遊水池といった河川構造物が計画される。いろいろな計算方法は考えられているものの、流域の森林や林道や地質、さらに護岸状況はさほど考慮されないまま、設定されている。
球磨川流域を主として熊本県内や全国にも支援の輪が拡がった川辺川ダム反対運動では、2001年から2003年まで述べ9回開催された住民討論集会ならびに森林保水力の共同検証の際、この基本高水が大きく立ちはだかった。毎回会場が数千人規模で埋まりテレビの中継も入って壇上の議論が注目される中で、推進派の論客である国交省官僚や河川工学者らと対等あるいはそれ以上にやりあうため、川辺川ダム反対運動は川辺川ダムの根拠となっている基本高水に切り込み基本高水の精神も含めて猛勉強し、基本高水の考え方そのものに違和感を抱くようになっていく。
こうした背景があるからこそ「脱基本高水治水」という言葉に込められた意味は、設定された具体的な数値の否定のみにはとどまらないだろうと、私は感じていた。他方で、「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味を伝えることの難しさも、予想していた。私自身、川辺川ダム反対運動の歴史や意味、さらには川の傍で川と共に生きる暮らしを流域の方々から学んだからこそ、基本高水やこれを支える河川法の川の捉え方が球磨川流域住民の川の捉え方と大きく異なることに、気付き始めたからだ。球磨川・川辺川からの発信を、他の地域の人びとがどう受け止め、どんな議論が喚起されるのか。「脱基本高水治水」という言葉に込められた意味は、どのように説明されるのか。伝えることの難しさを予想しながらも、私は楽しみでワクワクしながら、東京から熊本へと飛んだ。
1日目は、手渡す会の黒田さん、八ッ場あしたの会の渡辺さん、水源連の遠藤さん、京都大学名誉教授の今本先生の報告を踏まえて、研究会参加者との討論が行われた。
この日は、この研究会で何をしようとしているのかを確かめるような質疑や議論が展開された。印象的だったのは、言葉や状況の解釈が発言者によって異なることが、表れていたことだ。
今回、他地域のダム反対運動をしている人たちも参加していた。議論をする際の発言や議論の解釈は当然、それぞれの暮らしや運動の経験に依拠したものとなる。運動の戦略についても、ダム問題の当事者は水没予定地のみならず流域全体だということについても、球磨川流域では当たり前のことが他の地域ではスムーズに受け止められないことが、討論から伝わってきた。なるほど、私自身、川の傍で川と共に生きる暮らしを経験したことはほとんどないので、「ダムや連続堤防が川を殺す」ことを観念的には理解できても、実感を伴った理解をするのは容易ではなかった。そうした、自分自身が経験した難しさが、ここでも再現されていた。
一方で、そんな場面にたびたび出くわして改めて思ったことがある。この流域は、川の川らしさを知り、川らしさを取り戻すことがどれだけ重要なのかを、実感を込めて発信できるところなのだ。そのことが、とても羨ましかった。
2日目は、円卓で1日目の討論が続けられた。今回の研究会の成果のアピール文や内容を吟味し、また研究会の名称を含め今後どうしていくかについて、議論が交わされた。
アピール文の内容の検討では、今後を考える上で貴重な議論ができたように思う。今回の取り組みが、参加者にどれだけ理解され問題意識が共有されたのかが浮かび上がってくるような議論だったからだ。そして、川の傍で川と共に生きる暮らしの経験があまりない人たちに「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味の理解を促すためにはまだいくつかのステップが必要なことも、明らかになった。
まず、そもそも川とはどのようなものか、という議論は不可欠だろう。球磨川・川辺川流域の人たちが「生きた川」と表現する川が、いったいどのような川なのか。それがわからなければ、ここの流域の人たちが言う「今の球磨川は死んでいる」ということがわからない。それがわからなければ、流域社会が経験したダム・連続堤防・高度経済成長に付随する生活様式の変化とそれに伴う排水等から川が死んでいったこと、流域にとってのそのことの、意味がわからない。なぜこの流域の人たちは何度も浸かりながらも球磨川を大切に思っているのか。なぜ、これ以上ダムができたらいけないという判断が働いたのか。この観点からすれば、川を「洪水を流す河道」としか見做さない河川法の問題点も、伝わらないに違いない。
また、治水とは何かという点についても、議論を通じて理解を深められるといい。住民討論集会をはじめ政策レベルで河川を議論するとき、川の問題は水害対策・利水・環境といった具合に分化されてきた。それぞれのトピックに“利害関係者”が設定され、利害を天秤にかけて、「環境より経済・防災が大事」といった判断がされてきた。議論の交通整理をするため分化するのは仕方ない面もあるだろう。しかし、そもそも川とはどのようなものかに関する共通認識がない上で分化すると、机上の空論しか展開できない。数値を駆使し計算式で捉え、危機をあおる。川とは、そんな狭量なものなのだろうか。川の機能は分化して、数値や計算式で実態を掴めるような、技術でコントロールできるようなものなのか。治水とは、そういうことなのか。2日目の議論で出されたこの指摘は、川の傍に川と共に生きる暮らしを積み重ね洪水の度に現場を歩き回り検証を繰り返してきた流域住民と、「流水を見ていたけど川を見ていなかった」と省みる治水の専門家からの、クリティカルな問題提起ではないだろうか。
こうした論点を踏まえながら、今後、川の傍に川と共に生きる暮らしを重ねてきたこの流域から「脱基本高水治水」という言葉に込めた意味を、より伝わる言葉にして発信していけるといい。まだ発展途上だけれど、そんな展望も描かせてもらえるような議論だった。
かつては日本中の多くの地域で、川の傍で川と共に生きる暮らしがあった。しかし戦後の河川開発が全国で展開され、川の領域を侵犯して宅地化と川のコンクリート三面張りの水路化が進んだ今日では、都市部を主としてそうした暮らしは失われた。今では奥山の川までダムが造られコンクリート張りになり、かつての経験則が通用しない、人を寄せ付けない川が多くなってしまった。悲しいことだが「レジャーでしか川に行かない」「川は遠い存在」という人の方が、今は多いに違いない。名古屋に生まれ育ち、京都で学生時代を送った私も、球磨川流域に通うまではその一人だった。だからこそ、川の傍で川と共に生きる暮らしとその重要性を知って「脱川辺川ダム」を選択し実現した球磨川流域からの発信は、大きな意味を持つと思う。
川辺川ダム反対運動にかかわってきたみなさんは20年にわたる運動を通じて、「脱川辺川ダム」の思想をつくりあげてきた。そしていま、その思想を、私のような川の傍で川と共に生きたことのない他者へも伝達可能な言葉に翻訳しようと、奮闘されているのだと思う。
今後、この努力がどのように展開され実を結んでいくのか。手渡される世代にある立場でみなさんの背中を見て学びながら、私も、将来世代に手渡す努力を重ねたいと思う。
※一部メディアで「脱基本高水治水研究会の結成」と報道されていますが、研究会を結成したわけではありません。
by tewatasukai
| 2013-04-29 15:31
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